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 去年の年賀状は辞書並みの分厚さ、今年はたったの七通だった。スポーツクラブの知り合いと学生時代の友人と。
 年賀もメールのご時世で、社の俺のアドレスもとうに削除されているから、ぱたりと年賀が届かなくなったのも、道理といえば道理かもしれない。もっとも、去年の正月までは葉書でやり取りしていたのだから、住所など容易く分かるだろうに。
 あのサタケの口利きで二、三の仕事は寄越したものの、どこもすぐに渋り始めた。どいつもこいつも、かつて下請けだった連中だ。去年まではしつこいくらいに毎年葉書を寄越していたのに、今じゃこっちを見るが早いか、あからさまに顔を曇らせて、いかにも忙しげに片手であしらい、そそくさ足早に去っていく。碌に話も聞きやしない。
「……なんとか、しないとな」
 来月は決算だ。テコ入れしないと、本格的にヤバい。この青山の事務所の為にどれだけ銀行から借り入れたか。テナント料はバカ高いが、商談には看板が大事だ。所在地如何で事務所の格が決まってくる。例え十坪しかないのが実情でも。
「──仕方がないな」
 古巣にたかりに行くとするか。
 地下鉄を乗り継ぎ、馴染みの駅で降り立った。踏み込まれ薄汚れた地下道、居並ぶ居酒屋、喫茶、弁当屋、通い慣れた道だ。昼時にはワイシャツ姿で賑わう地下だが、盆の最中でがらんとしている。地下鉄直通のドアを開け、館内に入った。空調がひんやりと体を包み、眩い空間が一気に広がる。少し歩いて、広々とした吹き抜けのエントランスホールに入った。右手に銀行のATMスペースを見て、館内中央の総合受付を通り過ぎ、高層階用エレベーターホールへ向かう。左右向かい合わせに四機ずつ、計八機の扉が閉じている。まだまるで違和感がない。ボタンを押して待っていると、十六階で待機していた右手の奥が降りてきた。オフィスフロアの入口に立つも、IDカードは既になく認証システムを通れないので、カードリーダーで内線を押し、フロアにいる社員を呼ぶ。
「──ああ、ナガモトさん」
「よ、ツガちゃん、元気?」
 ドアを開け顔を出したのは、顔馴染みの女の子だった。隣の島だったツガワマサコ。二十代後半。いや、そろそろ三十路ってとこか。「はい、土産」と菓子屋の箱を手渡すと、ツガちゃんはたちまち愛想良く笑った。「どうですか、ナガモトさん。青山のオフィスの居心地は」
「んー。ま、ボチボチよ」
「皆、羨ましがってますよ。凄いですよねえ、心機一転、独立開業なんて。ナガモトさんなら楽勝ですね」
「ありがと」と外向けの笑みを向け、見慣れたフロアをしげしげ見回す。「──へえ、えらく静かじゃないの」
 広いフロアは閑散としていた。十人一島、それが八列、それぞれの島に課長席、窓辺に部長の大型デスクが四、ざっと百弱の無人のデスクが、書類を雑然と脇に積み上げ、並んでいる。
「まあ、お盆なんで」
 皆、休暇をとっているらしい。にしても、決算を控えたこの時期に休むとは。以前ならば、少なくとも若手は出社していた。もう少し誰か出ているだろうと思っていたのに。
 当てが外れて内心いささか気落ちする。今日の情報収集先は、どうやらツガワだけらしい。フロアの端の自販機でミネラルウォーターのペットボトルを買い、箱からシュークリームを出しているツガちゃんの席の島まで戻った。後ろのデスクの椅子を引く。
「ツガちゃんはいいよなあ、悩みなんかなさそうでさ。今度の休みはどこ行くの? また海外?」
 巻き毛の先をマニキュアの先でいじりつつ、ツガちゃんは心外そうに口の先を尖らせる。「あら失礼しちゃう。これでも色々大変なんですからね」
 苦笑が漏れた。可愛いもんだ。高が知れてる。
 背までの巻き毛を茶色に染めて、全身隙なくブランド物で固めている。抜け目なく笑顔を向けてはいるが、今デートに誘っても、鼻も引っ掛けやしないだろう。以前ならホイホイついて来たこの女も。雑談に紛らせ社内の近況を一頻り聞き、十分ほどで切り上げた。
「で、ハゲ常務、いる?」
 ひっそりとしたパーテーションの向こうを顎先で指すと、ツガちゃんは笑って肩をすくめた。「いいんですかあ、そんなこと言って。怒りますよ、サタケさん」
「いいんだよ、俺とハゲは仲良しなんだから。これも愛情表現よ」
「──あ、ちょっと待って下さいね」とツガちゃんが電話をそつなく取った。「はい、日の丸物産でございます」
 その光景にも違和感がない。今でもとっさに電話を取ると、「はい、日の丸」が口をついて出てしまう。窓の外の見慣れた眺望を手持ち無沙汰に眺めていると、やがてツガちゃんは用件を聞いて電話を切り、首から下げたIDカードを辟易したようにぷらぷら振った。「まったく、嫌になっちゃう。社名を言っても、未だに訊き返されるんですよ」
 IDカードは入館証、社員の身分証も兼ねている。以前には、昼飯をとりに館外に出る際にもそのまま首から下げていたが、合併以後に新たなカードに切り替えられると、俺達・旧帝国物産の社員の多くはさりげなく外して出るようになった。いつぞやのランチ帰りだったか、普段はにこやかに振る舞うこのツガワが同期の女に愚痴っているのを小耳に挟んだこともある。曰く、あんな程度の低い人達と、一緒にお仕事するの嫌だわあ──。
「ああ、サタケさんでしたっけね」と立ち上がり、ツガちゃんはパーテーションで仕切られた常務室のドアを開け、立ったまま首を突っ込んだ。ボードを確認したのだろう。すぐに顔を出して簡単に告げる。「大阪に出張ですね、十七日まで」
「ああ、道理で」
 ようやく腑に落ちた。フロアの閑散とした状態が。白壁に掛かったホワイトボードの横線で区切られた名前の横には、丸で囲んだ「H」の文字、そうでなければ「直行」の二字。つまり、営業の連中は須らく鬼の居ぬ間に命の洗濯、直行直帰を決め込んでいるらしい。キャスター付きの事務椅子の背に腕を置き、戻ってくるツガちゃんを振り向いた。「盆の間中、大阪か。きっと、どうせコレの所よ」
 笑って小指を立てて見せる。無邪気に見えるよう作った顔で、肩をすくめてツガちゃんも笑った。「まっさか!」
「いや、間違いないって」
 世話をしたのは俺なんだから。
「鞄持ち」「太鼓持ち」と周囲に陰口を叩かれようが、一心不乱にサタケに尽くした。出世レースを勝ち抜くだろうと踏んだからだ。睨んだ通り、サタケは数多のライバルを蹴落として、出世街道を驀進した。そして、最年少で常務の椅子に納まった。伴い俺も、同期との出世レースを順調に勝ちぬけ、四十と少しという若年ながらも重要ポストに取り立てられた。夜毎取引先を接待し、フロアの電話は鳴り響き、業務の裾野を広げて子会社・孫会社を幾つも作り磐石な受け皿を確保して──俺は勝ち組だった。何もかも実に上手くいっていた。よもや同業他社と合併するとは思わなかった。
 相手は格下の日の本商事、予期せず対等合併だった。元は綿花で鳴らした老舗の専門商社だが、行政の規制で失墜して以降、ぱっとしない階層でくすぶっていた。だが近年、経営陣の若返りに伴い経営を多角化、振るわなかった業績も伸びていた。
 新会社は日の丸物産と改められた。社長は日の本の方から出た。番付はいつの間にか逆転していた。役員人事の刷新に従い、俺達、旧帝国物産側のポスト獲得は苦戦を強いられた。サタケもこけて、あっさり外れた。つまり、俺もだ。
 不採算部門の閉鎖・縮小、統合部署の業務効率化、とリストラが進んだ事もあり、多くの同僚がこれを機に辞めた。俺は再起を賭けて背水の陣を敷いた。辞めるか残るかの二択だった。学閥が無効になった今、こうなれば自分一人の才で伸し上がるしかない。
 俺は精力的に働いた。新規の契約を強引に取りつけ、課の業績を押し上げた。同僚の反応は冷ややかだった。妬み、嫌み、そして冷笑。パワハラ上司と陰口を叩かれていたのも知っている。課員が居着かず何人も辞めた。入れ替わり立ち替わり。それでも、右肩上がりの戦功は数字に歴然と表れていた。それで誰もが認めた筈だ。突出した実力を。熱弁を揮い、辞表を突きつけ要求したポストは、だが、居並ぶ上にあっさり蹴られた。最終日の挨拶で思いの丈をぶつけたが、返ってきたのは疎らな拍手。ようやく俺は思い知った。才覚だけで伸し上がれるほど、世間は甘いものじゃない。
 
 ドアを開けると、冷房の利いた右手のデスクで、若いバイトが顔を上げた。携帯をいじって遊んでいたようだ。雇って三ヶ月の電話番だが、そろそろダレてきたらしく、最初の頃のような気張りはない。綺麗なままのデスクの上にピンクの携帯をさりげなく置き、席を立ちつつ笑顔を向けた。「お疲れさまですー」
 彼女の他には誰もいない。右の隅に背の高い観葉植物、手前に事務兼秘書の彼女のデスク、入口正面に営業のデスクが向かい合わせで二つ、左には革張りのソファーの応接セットが白いパーテーションで仕切られている。日当たりの良い正面の窓辺、一際大きな体裁の良いデスクが代表者たる俺の席だ。まだ真新しい匂いのする小奇麗なオフィスをせかせか突っ切り、背広を脱いで、コート掛けにかける。
「あ、コーヒー淹れますねー」
「悪い、お茶がいいな。コーヒー、出先で飲みっぱなしでさ」
 隅のコーヒーサーバーに向かっていた彼女に、笑顔でおどけて手を合わせる。「胃が痛くてコーヒーはちょっと……」なんて弱音は吐けない。会社は順風満帆だ、何の心配もない、そう印象付けておかなければ。万一ここで辞められでもしたら、余計な手間と費用がかかる。汗で湿ったネクタイを緩め、デスクに置かれた新聞を取り上げ、日当たりの良い窓辺の席に腰を下ろす。ごそごそやっていた茶髪のバイトがトレイに湯飲みを載せて戻ってきた。
「お。サンキュー、サオリちゃん」
 真っ赤なマニキュアの指で差し出された厚い湯飲みを愛想良く受け取る。"女の子"は味方につけておくに限る。おだてておけば、勝手にあれこれ働いてくれる。逆に機嫌を損ねられると厄介だ。
「ああ、サオリちゃん。今日はもう帰っていいよ」
 言うなりバイトは「わあ、いいんですかあ」と笑顔を向けた。よほど退屈だったのか、いそいそ帰り支度をし、「お疲れさまですー」と帰っていく。愛社精神の欠片もない。
 眺めていた日経を投げ出し、深い椅子の背に寄りかかった。電話は鳴らず閑散としている。事務所内は空気が良い。来客がまるでないからだ。必然的に喫煙もない。衝立の向こうの応接セットには、商談すべき誰の姿もない。内情は火の車だ。湯飲みの中で、茶柱が一本立っている。なんの皮肉だ。ガランと平和な事務所を見回す。
「──俺は、こんな所で何をしているんだ」
 デスク三つの、十坪ばかりの狭い事務所で。百人からの大フロアで窓辺の上席を狙っていた俺が。
 当初は仕事を寄越した周囲も、日を追う毎に離れていく。冷ややかに、あからさまに。冠がないというだけで、こうまで豹変するものか。子会社なんか苦もなく幾らでも作ってきたから、コケるなどとは想像だにしなかった。
 破産は目に見えていた。じっと座っている間にも、借金の利子は雪だるま式に増えていく──。
「……助けてくれよ」
 誰か、俺を助けてくれよ。
 
 陽はまだ高かったが、事務所を出て帰途についた。サタケが不在というのでは、どうせ仕事は回らない。携帯を取り出し、電源を切った。営業の連中の泣き言なんか、今は聞いていられる気分じゃない。
 オフィスビルの立ち並ぶ街は閑散としている。普段は活気に溢れた猥雑な街だが、盆休みで車も少ない。アスファルトの上で陽炎が揺れる。うだるような炎天下、どこもかしこも気が抜けたように空々しい。吹き出た汗を腕で拭き、ギラギラ照りつける太陽を仰いだ。今年は冷夏だとかほざいていたのは、いったいどこの馬鹿者だ。
 くらり、と不意に目が眩んだ。花壇の鉄柵をとっさに掴んでしゃがみ込む。この暑さに当たったのだろうか、胸がむかむかして気持ちが悪い。早く家に帰って横になろう。
 電車を乗り継ぎ、最寄り駅で降りる。まだ蒸し暑い午後三時過ぎの道を、背広を手に下げ、我が家へ向かった。
 真夏の青葉がキラキラ揺れる。閑静な国立の住宅地。都会のマンション暮らしも快適で良いが、家はやはり戸建だろう。マンションの狭い区分所有では一国一城の主の気分は味わえない。何より、小学生の子供には良い住環境が必要だ。
 即金で買った庭付き車庫付きの北欧風マイホーム。煉瓦の門柱の鉄柵を開け、グレイのタイル張りのアプローチを歩き、玄関の扉を「ただいま」と開ける。外の明るさで目が慣れていないせいか、家の中が薄暗い。散々蒸れた革靴を脱ぎ、気怠い体でホワイトアッシュの床材の廊下に上がり込む。胸のむかつきは収まっていたが、早くベッドに入りたい。女房を呼ぶが、答えがなかった。買い物にでも出たのだろうか。姿を捜して廊下左の居間へと入る。白で統一した明るい室内、ローテーブルの紙が目を止まった。書かれていたのは見慣れた名字と固定電話の番号。妻の実家の連絡先だ。
「……そうだった」
 気が抜けた。女房は子供を連れて里帰りしている。毎年、俺の田舎に帰省していたが、今年は無理だと伝えたら、女房は不服そうに「……でも」とごちた。あの子達、夏休みなんだもの、どこにも連れて行かない訳にもいかないでしょう。
 冗談じゃない、帰省なんかできるか。どの面下げて帰れというのだ。帰るなら、故郷に錦を飾りたい。結局、女房は二人の子供を引き連れて京都の実家に里帰りした。じゃ、行って来ますね。あなたはお仕事で忙しそうだし──。当てこすりか。
 面白くない気分でキッチンに行き、冷蔵庫から缶ビールを出した。居間に戻って何気なく部屋を見回しながら、プルトップを引きあける。一気に煽って、壁のカレンダーで目を留めた。今は向こうも盆だから、義理の父母も在宅か。何の印もない印刷の数字をビール片手に眺めていたら、──ああ、と出し抜けに思い出した。なんだ、今日は俺の、
「……誕生日じゃないか」
 さては忘れているな、ユウコのヤツ。
 無性に腹が立ってきた。こっちはお前らを養う為に、このクソ暑い中、足を棒にして歩き回ってきたというのに。盆は例年、故郷の新潟で過ごすから、両親も交えて賑やかに皆で誕生日を祝っていた。だが、今年のこの体たらくはどうだ。
 キャビネットの上にはフレームに入った家族写真。笑顔の四人が映っている。俺と女房とタロウとマミ。家の新築時に撮ったものだ。今頃は自分達だけで楽しくやっているんだろう。大企業を辞めた途端に、手の平返したようにこの仕打ちだ。ユウコは元後輩で、俺と同じく帝国物産の社員だった。辞職後も平気な顔で振る舞ってはいるが、内心、愛想を尽かしているんだろう。
 だが、俺がいったい何をした。俺は精一杯努力した。宴会芸も、もんじゃの焼き方も、カラオケの熱唱も、仕事と思えばマスターした。周囲と親睦を深める為に部下を飲みにも連れて行った。一生懸命働いた。会社の為に、常務の為に、この家族を養う為に。いつだって自分のことは後回しで。
 夏に休みを取る度に、希望する海外に連れて行った。どうしても欲しいとねだるから、奮発して家も建てた。だが、この家だって本当は、取引先に無理にごね、格安な価格で手に入れたのだ。最新式の携帯が欲しい。自分用のパソコンが欲しい。旅行はやっぱり海外よね。手に入れた傍から次から次へと好き勝手ばかり言いやがる。俺だって休みの日には、家でゆっくりグウタラしたいさ。テレビ見て漫画見て一日中寝転がっていたいさ!
 壁に当たって、缶が弾けた。泡が方々に飛び散って、カレンダーの端が少し濡れた。ぐしょぐしょだ何もかも。ラグもソファーもクッションも。激しく跳ね返った空き缶だけが、靴下の足元にコロコロ転がって戻ってきた。
「……畜生」
 何もかも、全てが無性に馬鹿らしくなった。
 
 カプセルホテルは素通りし、千鳥足でビジネスホテルに入る。あんな棺桶みたいな所に寝られるか。
 あの後、鍵をかけて家を出た。近頃何かと物騒だから。電車に乗って繁華街に出、憂さ晴らしにしたたかに飲んだ。もっとも、経費ではもう落ちないから、高い店には入れない。高い宿にも泊まれない。浴衣に着替え、部屋備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ベッドの端に座り込む。リモコンを取ってテレビをつけると、やかましく喋る芸人が客の笑いを取っていた。知らない顔だ。どいつもこいつも。
「──くだらねえ」
 苛々してきてテレビを切った。サイドテーブルから煙草のパッケージを取り上げる。ずっと禁煙していたが、そんな事はもう、どうだっていい。久し振りの煙草に少し噎せ、涙目になりながら天井を眺める。静まり返ったシングルルーム。明かりを落とした陰気な部屋。虚しかった。知らぬ間に世の中は変わっていた。時はどんどん流れている。一人、世界に取り残されたようだ。
「……畜生」
 くさくさした。気分が落ち込むこんな日は、起きていても碌な事がない。ベッドに入って寝てしまおう。床に置いた鞄を取り上げ、処方箋の袋を出した。睡眠薬の錠剤だ。これがないと眠れない。
 水を注いだコップを取り上げ、ふと、プラスティック・シートを凝視した。眠ったまま目覚めなければいいのに。いっそ、全部飲んでしまえば──。
 いや、睡眠薬はえらく苦しむとどこかで聞いた。どうせ死ぬなら、もっと楽な方法がいい。酔いの回った頭と眼(まなこ)で薄暗い部屋をぼんやり見回す。自分が着ている浴衣の帯紐が目に止まった。これなら首を吊れるだろう。いや、苦しむのは嫌だ。もっと楽な方法は──。ふと「凍死」の二文字が思い浮かぶ。いや、今は真夏だ。南極にでも行けってか。
 何もかも、ほとほと嫌になっていた。窓の向こうは真っ暗だ。薄く開けてある隙間から、遥か階下の車道からの音がごく微かに聞こえる。この部屋は三階だが、建物は十五階建てだったから、屋上からダイブすれば、まず間違いなく即死する。地面に激突するまではほんの数秒、激突時には意識などとうにないだろう。
 これは良い考えに思えた。ぼんやりベッドを立ち上がり、鍵のかかったドアへと歩く。ひんやり冷たいノブに手をかけ、足を止めた。
「……自殺じゃ、保険金は下りないな」
 子供達に罪はない。銀行からの借入金は退職金でペイできるが、無職の母親と取り残されては途方に暮れてしまうだろう。なんとか事故に見せかけなければ。
 携帯を持って部屋を出た。地面に落ちる直前まで酔った様子で話していたと誰かに証言させねばならない。俺は酔っ払って屋上に出、その挙句に転落するのだ。
 常連が帰省していて客が少ないのか、ホテルの廊下は普段よりどこかのんびりしている。従業員が鍵をかけ忘れたのか、元々そういう風にしてあるのか、ともかく屋上への鉄扉は未施錠だった。それを押し開け踏み出すと、突風が顔に吹きつけた。生暖かい風に髪を弄られ、ホテルのスリッパで端へと歩く。
 屋上端の鉄筋フェンスの向こうには、夜の街が広がっていた。冷たいフェンスに腕を置き、煌びやかな夜景をしばし眺める。四方に広がる眠らない街・東京。押し潰されそうな黒天の下、煌びやかな大都市の夜景が遠く彼方まで見渡せる。
「……東京は、綺麗な街だな」
 盆の最中は交通量が減る。それでも宝石箱を引っくり返したような輝きだ。何故あんなにも、赤や黄色の光の筋がどこまでも続いているのだろう。どこまでもキラキラ、果てることなく──。俺はここで生きたかった。だから、できる限りの努力をした。身を粉にして働いた。けれど、俺の居場所はここにはなかった。
 足を掛け、スリッパでフェンスに立ちあがる。眼下には東京の街が広がっている。この懐に飛び込んで、煌びやかな大都会に抱かれて逝くなら本望だ。
 浴衣の裾がはためいた。足元から左手に向かい二十センチほど幅のあるフェンスが夜目にも白く伸びている。こいつは、いい。このまままっすぐ進んで行こう。フェンスが途切れたら、そこでお終い。人生の決着が自動的につく。もっとも突風に吹かれたら、即座にそこでお陀仏だが。
 フェンスの上を、千鳥足でぶらぶら歩く。解放されたような良い気分だ。先端まではあと十歩。右の足を持ち上げた途端、突っかけていたスリッパがフェンスの外に脱げ落ちた。ホテルの軽いスリッパが不規則に揺れて落ちていく。闇に吸い込まれるその様を無感慨に見送った。
 スリッパのなくなった右の足を、しゃっくりと共に平均台の上へと戻す。ふと気がついた。靴下に穴が開いている。親指だ。靴下の色が紺だから、いやに目立つ。ぽっかり開いた丸い穴は、なんだか、いやに情けない。
 手すりを降りて、靴下を脱いだ。左右の靴下を丸めて投げる。それは給水タンクの壁に当たって、隅まで転がりひっそり止まった。名前など書いていないから、自分の物とは誰も思いはしないだろう。
 左の足だけスリッパを突っかけ、鉄筋フェンスにまたがった。フェンスの上に立ち上がり、端に向かって歩き出す。そうか、ここで転落したら、こんなダサイ浴衣姿で発見されるのか──。それを想像して苦々しい気分になる。どうせなら、アルマーニのスーツでも着て来るんだった。だが、今更気付いても後の祭だ。もうそろそろ後がない。携帯を持ち上げ、気怠い指で短縮を押した。数回コールを聞いた後、聞き慣れた女声で応答があった。『 ──もしもし? 』
 自慢の妻だ。並み居る同期を出し抜いて、やっと結婚にこぎつけた。結婚式に招いた同僚から、どれほど恨めしげな羨望の眼差しを向けられたことか。だが、この女の声を聞くのも、これが最後だ。
「……愛してるよ、ユウコちゃん」
 携帯を耳に押し当てて、微笑いながら囁いた。
『 なあに? あなたなの? 今年はあなたがいなくって、父も母もとても残念がっているのよ 』
 だろうな。俺は自慢の婿だから。一件数億の取引を舌先三寸で転がしてきたこの手腕をもってすれば、素人を手懐けるなんて造作もないさ。美人で聡明、同期入社の女子社員の中で一番人気だった妻。こんな男を掴まなければ、幸せになれたかもしれないのに。こんなに不甲斐ない夫の声でも、今でも君に届くだろうか。
「……なあ、ユウコ。愛しているよ」
 
 俺の声が聞こえるかい?
 
『 いきなり何よ、改まって 』
「色々すまなかったと思ってさ。うん、悪かった」
 
 俺の声が聞こえるかい?
 
『 ……なによ、酔っているの? 』
「まあね。でも、これは本当の気持ちさ」
 
 俺の声が聞こえるかい?
 
『 おめでとう 』
「──え」
 面食らった。
 いくらなんでも、あんまりだ。とっさに返せず立ち尽くしていると、ユウコは明るい笑い声をあげた。『 お誕生日でしょ今日。忘れたの? 』
「……覚えていて、くれたのか」
『 ばかねえ。当たり前じゃない 』
 下から吹き上げる緩い風が、俺の髪を舞い上がらせる。
『 あなた携帯切ってたでしょう。昼からずっとかけていたのに 』
 そういえば電源を切っていた。不景気な声を聞くのが煩わしくて。
『 ね、まだ外にいるの? 今、車のクラクションが聞こえたわ。今度は誰と飲み歩いているのよ 』
『 誰とも。俺一人さ 』
 フェンスの先端まで歩いて来ていた。持ち上げていた爪先から軽いスリッパが脱げ落ちて、左右に宙を漂いながら、漆黒の闇へと吸い込まれていく。
『 あなたったら、バースデーに一人でいるの? もう! だから一緒に行こうって言ったじゃない。──あ、ちょっと待って 』
 通話口の向こうで、ごそごそ何かの音がした。知らず耳を澄ましていると、音が続け様に飛び込んできた。
『 パパー、おめでとー 』
『 おめでとー 』
 怒鳴りつけるような笑い声。弾けるような子供の声。
「……タロウ……マミ」
 諍いをしているらしき声が聞こえる。携帯を奪い合っているらしい。怒鳴りつけるタロウの声、甲高いマミの泣き声、たしなめる母親の声がして、ユウコに代わった。『 あなたがいないものだから、タロウもマミも機嫌が悪くて。ねえ、今、どこにいるのよ 』
 どこにいるのか知ったなら、君はきっと驚くだろうな。
『 やっぱり、あなたもこっちに来ない? あなたがいなくちゃ始まらないわ。ねえ、お盆の時くらい休みましょうよ。あたしだって、いつもみたいに、みんなで楽しくお祝いしたいし 』
「行かないよ。だって、俺は──」
 強風が前髪を吹き上げる。ビルの狭間の、ホテルのささやかな植栽が、夜の闇に遠く虚ろに沈んでいる。先ほど落ちたスリッパが、意外にもはっきり白く見える。
「片付けなきゃならない事があるんだ」
 俺は慎重に身を屈める。堅いフェンスに手を付いて、片方ずつ足を下ろす。「──家の中を、片付けないとさ」
 コンクリートの床が裸足に硬い。携帯を耳に当てたまま、大都会の夜景を眺めた。
 だって、茶柱が立っていたから。
 
 
 

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